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2013年5月11日土曜日

遺骨収集 大里

遠くに見えるのが与座岳です。沖縄戦においては最後の防御線であり激戦地でもありました。水之江様のサイト「沖縄戦史」に「与座地区の戦闘」が克明に記録されています。

今回は与座岳の東側にある大里地区が現場になります。

県道から一歩中に入れば鬱蒼としたジャングルです。この日はガマフヤー代表と二人での作業になりました。

ここには日本軍の陣地壕がありましたが米軍の爆撃により壕の入口は崩れ落ち、わずかに開いた穴から腹這いになるような形で壕の中に入りました。入口付近にはハブがいることが多いそうです。

内部は常に湿っていて水たまりもある。天井は低く足下は粘土質の土なので非常に歩きにくい。石が一か所に集められている。以前に遺骨収集が入った跡だそうです。

遺留品はそのまま置いてある。

壕内部はコの字形になっておりもう一方の出入り口があったであろう場所は崩れて埋まっていた。内部から掘り進めるより外から掘った方がいいということです。

ここが外側です。すでにご遺骨や遺留品などが発掘されていました。この日は私がこの穴を掘りました。

粉々になったご遺骨。

米軍の銃弾があるということは、ここまで米軍が入ってきたという証拠です。

日本軍の装備金具など。

さきほどの陥没壕の入口を掘っていきますと瓶がでてきました。日本軍の薬瓶だそうです。

黒く焦げた土の層があり、そこを掘っていくと金属片が出てきました。

遺骨収集はとにかく範囲が広いので、まずは壕などの確率の高い所から掘っているそうです。一人が一日に掘れる量は少ないです。しかも丁寧に掘っていたらなおさらです。それでもコツコツやるしかないのでしょう。この下に待っている人がいるかもしれないのですから。


2013年3月22日金曜日

ギーザバンタ

陸と海から挟み撃ち

ギーザバンタ。本島南部、喜屋武岬と続くこの一帯は、岩はだの険しい、高さ数十メートルの絶壁が目の前に迫り、雄大なさまを見せつける。大岩がごろごろ海岸線に続いている。昭和20年5月末、浦添・首里の攻防戦で敗れた沖縄守備軍はジリジリと、南部に追いつめられていった。それとともに多くの民間人も逃げ場を求め、南部へ、摩文仁へと放心状態で足を向けていた。その数、およそ兵3万、民間人10万人余といわれる。わずか東西7キロの喜屋武半島にそれらの人々が砂糖に群がるアリのように集まっていた。

陸からは勢いづいた米軍の機銃が、海上には米小型艦がおり、挟み撃ちの中で悲惨な状況が繰り広げられた。摩文仁にある沖縄県立平和祈念資料館を訪ねた。展示されてある民間人の戦争体験記の中にギーザバンタの様子を書いたものがある。「アダンの下にもぐっていたときですね。血やら人の肉やらが飛んできましたよ。―上から降ってきましたよ。何だろうと思った。着ているキモノにくっついたですよ」 大城堅輝館長と資料館裏手で岩はだの岬を見た。数千、数万人の命をのみ込んだ絶壁を見た。鉄血勤皇師範隊として沖縄戦に加わった諸見守康さん(55)=宜野湾小校長=はギーザバンタで捕虜にとられ、実質的な終戦を迎えた。「岩はだで足が痛いんですよ。周りは真っ暗だし、少し歩くと何かにぶつかる。よく見るとそれが死体なんです。1体や2体じゃないですよ。無数に死体がありまして、避けて歩くのに大変なほどの数でした」

海上の米小型艦はスピーカーで何度も投降を呼び掛けていた。「船に乗っている米兵が双眼鏡でこちらを見てるのが分かるほど」の距離だった。銃を持っている日本兵を発見すると「銃を捨てなさい」と呼び掛け、隠れると「あと何分の間に捨てないと撃つぞ」と脅した。銃を捨てると「その調子。ありがとう」と叫んだ、という。最初は恐怖におびえていた民間人も、やがて1人、2人と投降に応じるようになり、がけの片隅には投降した日本兵の武器が山となった。「6月22日だったと思います。私も捕虜になりました。でも半面では安心したような気持ちもありました」と諸見さんは語った。与那嶺盛昭さん(55)=与那原町字与那原=もギーザバンタで忘れ得ぬ辛い思い出を持っている。与那嶺さんは、父や親せきの人ら8人で出身地の大里から玉城、具志頭と戦火を避け、南下、摩文仁へと来た。「あのがけをツルをつたって降りたのはいいですが、途中で艦砲射撃に遭うなど大変でした。その時おじが岩の破片を受け即死しました。カンプーをゆった50代ぐらいのおばさんたち4~5人も死んでました。腕がなかったり、首が切れたりして、何ともいえない光景でした」。

ギーザバンタの下にこんこんとあふれるわき水がある。当時もわき出る水で多くの人の命を救ったわき水だ。「敵に捕まるまいと思い、懸命に逃げたのです。そのうちのどがかわいてきて、見るとわき水があったので、これ幸いとたらふく飲んだのはいいですが、腹がふくらんだら、水が臭いのに気づいたんです」と与那嶺さん。諸見さんも「あのわき水の回りは死体がごろごろしていました。でもみんな飲んだでしょうね」と語る。わき水は今もあふれ出ている。  
(「戦禍を掘る」取材班)  

1984年2月2日 琉球新報掲載から抜粋させていただきました。
※写真はそのわき水ではありません。


2013年3月6日水曜日

二本松の壕

二本松の壕(詳細不明)

どこの壕にもある徹底した米軍の火炎放射攻撃の跡。

逃げ場の無い洞窟。敵兵がこの光に影となって見えたときはどんな気持ちだったのだろうか。

どうか、安らかに。


2013年3月5日火曜日

糸洲の壕(ウッカーガマ)

鎮魂之碑

「この洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川県出身の将兵、現地召集兵並びに従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である」

鎮魂之碑の横に「糸洲の壕」の入り口の細い階段がある。そこには綺麗な花が咲いていた。

その花の階段を降りていくと黒く焼けた岩肌のガマの入り口が大きく口を広げている。

「糸洲の壕」には二つの入り口がある。こちら側は「ウッカーガマ」

ガマの中は水はけのない泥土でした。ここで線香と水を供えて慰霊をさせていただきました。

1945年5月27日、戦況の悪化に伴い、豊見城城址にあった第24師団第二野戦病院(山3487部隊小池隊)は糸洲壕に移動してきます。この第二野戦病院には私立積徳高等女学校の女生徒25名が学徒動員されていました。移動にあたっては、歩ける者は部隊に帰し、重傷患者は「処置する」よう命令されました。
 しかし軍医は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れたということです。
 この長野県出身の軍医・小池勇助隊長は戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人であり、最期まで学徒隊を守り犠牲を最小限に抑えた人物でした。第二野戦病院小池隊は糸洲壕に避難したものの艦砲射撃が激しくなり、衛生兵や学徒隊・傷病兵は壕の奥へと移動していくことになります。壕の中は広いのですが、中には水量豊富な川が流れており洞窟内は濡れた状態で、学徒隊の足袋は乾くことが無く足がふやけてしまい歩くのも困難になったということです。
6月17日に壕の周囲は米軍が取り囲み、壕は馬乗り攻撃を受けます。壕の上からボーリングし穴を開けガソリンを流し込んで火をつけたり、ガス弾を打ち込んだりする攻撃です。
衛生兵たちは切り込み隊に任命され、夜になると闇夜に紛れて米軍へ奇襲を行いました。
衛生兵が少なくなるにつれ、学徒隊の仕事はますます多くなっていきました。
こうした中、小池隊長の元に野戦病院の解散命令が届きます。この解散命令とは実際には「玉砕せよ」という命令です。しかし今解散したら学徒隊を戦場に放り出すことになる。小池隊長は学徒隊の命と軍命の狭間で悩みましたが、こんな状況の元で少女たちを放り出すことは出来ない、と解散命令を握りつぶし壕の中で解散の時期を探ることにしたのです。 6月26日になって、沖縄守備隊第三十二軍牛島中将・長参謀自決の報を受け、小池隊長は日本軍の敗北を知ります。そこで小池隊長は危険が少なくなったと判断し積徳学徒隊に解散命令を出します。
 解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、次のような話をしたということです。
「日本は戦争に負けました。長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。負ける戦だと分かっていれば、君たちを預からなかった。親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない」と謝罪し、頭を下げました。
米軍に捕らえられるくらいなら自決を選ぶと言う少女たちに対しては、
「捕虜になることは恥ではない、本当の恥は死ぬことだ。決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示し、一人一人握手をし、学徒隊を送り出しました。
 解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったために、学徒隊25名のうち、戦争の犠牲となったのは3名で、22名が生還しました。
 解散の翌日、恐怖のため糸洲壕から遠く離れることができなかった学徒隊の一人の少女が壕に戻り、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見します。

てぃんがーら様のブログより引用させていただきました。

ただただ、安らかに。




2013年3月2日土曜日

轟の壕

轟の壕は伊敷集落の南西約500mに位置する自然洞穴である。直径約30cmの円筒形の窪地(ドリーネ)があり、その地下に全長約100mの自然洞穴が東西に延びている。

洞穴内で起こった悲惨な状況について体験者の証言が記録されていることや地理的条件がよいことなどから平和学習で一般、修学旅行などに利用されている。

民間の平和ガイドさんと一緒に入れば説明を受けられますし危険な場所も回避できると思います。個人でも見学できますが足下が悪いので十分に注意してください。

階段を一段下に降りると自然ガマの窪地と慰霊碑があります。壁は黒く焦げています。この場所がどのような所は分かりませんが、いくつも拝所があるので多くの方が犠牲になったのだと思います。

なにか、圧力というか重い空気を感じます。ここで線香とお水を少し供え最初の慰霊をしました。「どうか、安らかに。」

階段をさらに降りると、行き止まり。人がひとり通れるくらいの小さな穴が空いているだけでした。中は真っ暗でなにも見えません。この穴は凄く恐く感じました。

階段を少し上に戻りますと別の広場に行く道がありました。

ここにも、いくつもの窪地があり圧力を感じます。


地面にも黒い跡が残っています。。

見上げれば、木々の隙間から空が見えます。

その奥は行き止まり。今回(2013年2月7日)はこれで轟壕の慰霊を終了しました。

しかし、最初のあの穴が心残りでしたので帰ってからホームセンターで300ルーメンのヘッドランプと懐中電灯を購入しました。

2013年2月28日、再度、轟の壕に入りました。そしてあの穴から入ります。

ダブルのライトで洞穴の中がよく見えます。中から水の音が聞えます。入り口の穴は狭く、垂直に降りるような感じです。

頭上の鍾乳石から雫が落ちてきます。

階段を降りると地下水が流れていました。空気孔は無いのかもしれません、何かムッとしたような空気と匂いがします。中は真っ暗闇でしたがライトとカメラのフラッシュで写真を撮ることができました。


県関係者や日本軍がいた所に慰霊所がありましたので線香を立てて、膝をつき手を合わせました。どうか、安らかに。

地上に上がると明るくて、目が眩みました。そして新鮮な空気がおいしいかったです。

沖縄県平和祈念資料館編「戦争遺跡」から写真を引用させていただきました。

沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」から写真を引用させていただきました。




2013年2月28日木曜日

真栄里地域

サイモン・B・バックナー中将戦死之跡碑

米第十軍指令官サイモン・B・バックナー中将は、沖縄を侵攻した米第十軍の司令官。
昭和20年6月18日、戦闘指揮中、守備軍の砲火によりこの地で死亡した。昭和27年、米軍の手により記念碑が設立されたが、昭和49年に米軍より、キャンプフォレスターに移設されたため、昭和50年6月に沖縄慰霊奉賛会により現在の碑が設立された。 

バックナー中将は自分の死の1週間前に 日本軍牛島中将宛に降伏勧告文書を打電しています。 

「第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ  牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。  貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。 私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。  然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の使用する所となりました。 この上、貴下が戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。  私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を救助せられる事を勧告します。  明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。  貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。  昭和20年6月11日 米軍上陸軍司令官 中将 サイモン・バクナー」

この降伏勧告文書は牛島中将に届いたのでしょうか。同じ司令官として通ずる気持ちはあったのでしょうか。私はあったと思います。いずれにしてもバックナー中将の死後間もない6月24日に牛島中将は自決をされました。

平和祈念公園の「平和の礎」には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれております。戦没者に敵も味方もありません。ここでも慰霊させていただきました。

ただただ、安らかに。

栄里之塔
糸満市真栄里部落一帯で戦没した第二十四師団歩兵第二十二連隊の佐藤少尉ほか将兵、住民12,000余名を祀る。

真栄里部落一帯は6月中旬、強力な火器で押し寄せる米軍に対して住民も交えて戦闘が繰り広げられたという。戦後、真栄里部落住民が周辺に散在していた遺骨を集め同塔を建て、納骨して祀った。

山形の塔(山形県)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域、その他で戦没した山形県出身者40,384名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は765名。この塔の立つ糸満市真栄里は山形県出身者で編成された第二十四師団歩兵第三十二連隊の終焉の地である。

歩兵第三十二連隊の終焉の地

萬魂之塔

塔の立つ糸満市国吉部落一帯で戦没した無名兵士4,000余名を祀る。戦後、国吉部落民が各地に散らばった遺骨を集めて洞窟に納め、のち、コンクリート製の塔を建立、祀ったもの。

白梅の塔

沖縄戦で戦没した沖縄県立第二高等女学校の稲福全栄校長他、職員、生徒、同窓生149名を祀る。沖縄戦では二高女は生徒46名が3月24日、軍に動員された。生徒たちは現八重背瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され負傷兵の看護にあたった。戦局が急迫すると新城分院に移動、看護活動を続けたが6月4日解散命令を受け、弾雨の中で死の彷徨を続けた。部隊の一部は解散後、国吉の壕に拠って看護活動に専念したが多くが犠牲となった。





お堂の脇に白梅学徒隊自決之壕があります。



壕の中はまた、あの黒い跡です。これを見ると、とても胸が痛みます。
ただただ、安らかに。

「ひめゆりの塔」は平和学習の場(役目)となっていて、毎日多くの観光バスと観光客が訪れている。でも、この場所はとても穏やかな空気が流れていています。聞えるのは木の葉と鳥や虫の声だけです。

また、来ます。



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