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2013年4月5日金曜日

沖縄陸軍病院壕群20号壕

沖縄陸軍病院壕群20号壕の入壕は予約が必要です。南風原町立南風原文化センター(098-889-7399)で予約を入れて、受付で見学料300円を支払いますとガイドさんに案内していただけます。壕内は暗闇なのでヘルメットと懐中電灯を借りて中に入ります。こちらの壕のようにしっかり管理されガイドさんもいるところは少ないですが、やはり説明を受けながら壕に入れるのは、目と耳から同時に情報がはいるのでとても分かりやすく当時の状況が目に浮かびます。

沖縄陸軍病院の説明
いただいたパンフレットから転用させていただきました。

壕入口付近に置かれた医薬品類

このツルハシで70mもある壕を掘った。岩盤は固くて一日にそんなに掘れなかったそうです。相当な人も時間もかかったのでしょう。ここは自然のガマを利用した壕ではなく、完全な人工の壕です。

幅・高さはともに1.8m、壁際に幅90cmの簡素な2段ベットが作られていていたとのことですので、とても狭いです。また、雨水がたまらないように傾斜をつけたり、米軍に見つからないようにカーブさせたり、いろいろな工夫も施されている。

手術場(下のパンフレットを参照)から左手が19号に繋がる通路(落石している)

そして、右手が21号への通路(縦穴がある)

壕内の説明
いただいたパンフレットから転用させていただきました。


沖縄陸軍病院壕群20号壕出口。ガイドさんの説明を受けながら約20分で外に出ました。

ガイドさんが「せっかく来たのだから、飯あげの道を歩いてください」と最後にここまで案内していただきました。陸軍病院壕での看護に動員された女学生たちは、アメリカ軍の砲弾をかいくぐって、「飯あげの道」を通って近くの集落で作られた食事や水を壕に運びました。

女学生たちは飯の入った桶に棒を通して二人でかついで歩いたそうです。壕内での食事はこの飯で作ったおにぎり一個が一日分だったそうです。

「飯あげの道」の途中に南風原陸軍病院壕と悲風の丘がありました。





2013年3月28日木曜日

ガラビ壕

ヌヌマチガマの反対側の洞口「ガラビ壕」

ジャングルを少し歩くのですが、足下が荒れていますので気を付けながら歩き進むと洞口が見えてきました。
なにか近寄りがたい威圧感を受けました。

ポンプがありますが動いてはいませんでした。

ガラビ壕はもともと風葬の地で石積みになっている所がお墓でしょうか。現在も多数の遺骨がそのまま安置されているそうです。そのガラビ壕が沖縄戦では野戦病院として使われていたのです。

湧き水が溜まっていて先に進むのは難しいので、この香炉に線香とお祈りを捧げました。この静かで神聖な地が戦争に穢され、現代は平和学習といって多くの人が歩き回り墓の中をのぞかれる。
複雑ではありますが「ここに訪れて、ここであった知る事」が御霊への慰霊なのかもしれません。





2013年3月27日水曜日

ヌヌマチガマ

沖縄本島南部の具志頭村字新城にある自然洞穴で、全長約500メートル、東西にそれぞれ大きな洞口を開き、東側を「ガラビガマ」、西側を「ヌヌマチガマ」と呼んでいる。









地上の壕入口から斜面を降りると広い場所にでた。拝所らしき所がなかったので広場の中央で線香を焚いてお祈りさせていただきました。

閉鎖されるまでの1ヶ月余、地元女性の動員(炊き出しなど)や女子学徒らの不眠不休の勤務で、中部・首里戦線から送られてくる負傷兵の治療が行われた。しかし、人員と薬品の不足で治療と呼ぶにはほど遠かった。負傷兵は最も多い時で1000名を越えたと言われる。

6月、戦線切迫のため第一野戦病院も南部撤退を決め、6月3日、新城分院は閉鎖された。

4日、第一野戦病院は、国吉(現糸満市字国吉)方面の壕に撤退した。その時、女子学徒は解散の命令を言い渡され、その後各自で南部戦場を彷徨することになる。

ガマの内部は東西に全長約500メートルあります。昨年(2012年)ヒマラヤ登山の野口さんらがこのガマで多くのご遺骨を発掘されております。私もできれば内部に入ってみたかったのですが、ここのガマは大変ぬかるんでおり、奥の方は泥水が溜まった状態なので一人で入るのには少し不安を感じ、あきらめました。もし機会があれば、またこのガマに入りたいと思います。




2013年3月19日火曜日

第24師団第一野戦病院壕

第24師団第一野戦病院壕は東風平町富盛にある、八重瀬岳中腹にあります。白梅学徒看護隊が動員していたことでも有名な壕で、「上の壕」と「下の壕」の2つの壕があります。



1945年3月24日~1945年6月3日まで病院壕として使用されていましたが、戦況の悪化に伴い解散、そして撤退しました。激しい地上戦の中、傷病兵の看護にあたった証言者の話によると、壕に入りきれないほどの負傷兵が運ばれ、十分な看護の手も及ばず、学徒も24時間勤務していたそうです。壕内では患者のうめき声に満ち、排泄物などの悪臭が漂い、患者の体にはウジも湧いている状況で劣悪で苛酷な環境だったそうです。 

まずは壕に入る前に入り口で手を合わせます。「どうか、安らかに」

採石場をさらに掘り込んだ壕で下の本部壕と同じく竹を組んだ2段ベッドが50〜60床ほど、岩壁に沿って一列に奥へと並んでおり、前線から運び込まれる負傷兵で溢れていた。

手術は連日夕刻から明け方まで軍医、衛生兵、看護婦によって行われた。手足を切断する必要のある患者は上の壕に移され、切り落とされた手足は箱詰めにして砲弾の穴に学徒たちが埋めた。

負傷兵の運搬は主として防衛隊員や義勇隊員だったが、戦線からの負傷兵は東風平郵便局広場に運ばれ、そこから本部壕やヌヌマチガマに運ばれた。

車は下の大通りで止まるので、車から壕までは担架に乗せて運んだが、雨の日は大変だった。最初は昼間も運んでいたが、その後夕方を待って行動するのが日課になっていった。4人で負傷兵を運ぶが弾が飛んでくると、患者はそのまま置いて隠れていた。軽傷者から重傷者までいたが、生き延びそうな負傷兵を運び、そうでない負傷兵はそのまま置き去りにされた。

本部では夕方、遺体を付近の畑に穴を掘り埋める作業が毎日続いた。多い日は40体ぐらい。初めの頃は棺桶に入れて埋めたが。後はそのまま埋めただけではなく、場所がなくなり前に埋めた棺や遺体の上に重ねて土を盛り上げて埋め、しまいには爆弾穴に放り込まれた。

6月3日、分院はそれぞれ閉鎖して本部に合流、高嶺村(現糸満市)国吉に移動することとなった。そして6月4日、学徒隊には解散命令が出された。その時、負傷兵に対する「原隊」復帰の呼びかけが学徒隊最後の任務だった。

沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」より引用


2013年3月16日土曜日

クラシンウジョウ

クラシンウジョウ(暗御門)のは尚巴志の三男、具志頭王子の墓だと言われ、具志頭城跡の真下にあります。沖縄戦では米軍の港川上陸に備えて自然洞穴を拡張して構築された陣地壕である。

階段を登れば壕の出入り口があります。

階段の途中には黒く焦げた跡があります。

階段をあがると、いくつかの出入り口があります。

こんな狭い出入り口もあります。

階段をあがって右のほうに歩くと大きな出入り口がありました。今まで入った壕を較べるとかなり人の手が入っているようです。この通路は暗御門の時に作られたものなのでしょうか。


通路の横には部屋も作られていました。ローソク台の跡も見えます。

通路を突き当たるとヒンヤリとした広い空間に出ます。天井もとても高いです。そして右手の方に小さな明かりがもれています。むこうにも出入り口があるようです。


壁や天井の一部は黒や白くなっています。これも焼けた跡なのでしょうか。

内部の高い所に石積みで囲った区画があります。

光の方にいくと香呂があったので、ここでお線香をあげました。

今度は反対方面を歩いていきます。


こちらにも出入り口があります。

出入り口の近くに琉球王国の初代王 尚巴志の三男、具志頭王子と伝わるお墓がありました。ここでもお線香を立てさせていただきました。

お墓の脇には陶器が置かれていました。

一度、出入り口の外にでて海側の岩場に入ると四角い光があります。

銃眼です。


45年3月23日から4月1日にかけて米軍は陽動作戦を展開して港川から上陸することはありませんでした。しかし5月下旬、日本軍の南部撤退に伴い、この壕には高射砲部隊(約300人)が配置され、再び陣地壕として使用されることになりました。


6月4日、米軍は港川を占領し、そこに物資集積所をつくって本格的な攻撃の準備をはじめます。目前の米軍に対して、クラシンウジョウの壕の日本軍部隊は6月9日の夜、洞窟を出て切り込み攻撃をしました。

沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」より引用