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2013年5月22日水曜日

知念グスク(ちねんぐすく)東御廻り 拝所8

知念グスクは、南城市知念にあるお城跡で時代の違う新城(ミーグスク)と古城(クーグスク)の二つの郭が存在するのが大きな特徴となっています。

表門・裏門共に沖縄のグスクでよく見られるアーチ型の門になっていて、表門から中へはいると、石積の城壁に囲まれた空間が広がっています。





知念グスクは中世から近代までの複雑な建築物が城内外で見られることが特徴で、最近の調査では、13〜15世紀を中心とした土器・輸入陶磁器・銭貨・金属製品・骨類などの遺物が出土した。




2013年4月26日金曜日

斎場御嶽(せーふぁうたき)東御廻り 拝所7

斎場御嶽は琉球の始祖「アマミキヨ」が造ったとされ、国始めの七御嶽の一つといわれる琉球最高の聖地です。琉球の最高神女であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式はこの斎場御嶽で執り行われました。東御廻りの中でもここは世界遺産でもあり、毎日数多くの観光客が訪れています。

砲弾池 (沖縄戦時に米軍の艦砲弾が着弾してできた池)

大庫理(ウフグーイ)
聞得大君の「御新下り」の儀式のおこなわれたところである。

寄満(ユインチ)
寄満とは、王府用語で「台所」を意味しますが、貿易の盛んであった当時の琉球では、世界中から交易品の集まる「豊穣の満ち満ちた所」と解釈されています。

シキヨダユルとアマダユルの壷
 二本の鍾乳石から滴る「聖なる水」を受ける壷がふたつ下におかれています。

 三庫理(サングーイ)
二本の鍾乳石と、三角形の空間の突き当たり部分は、それぞれが拝所となっています。また、東側には海の彼方に久高島を望むことができます。

一度でいいから早朝に遥拝してみたいです。

 

2013年4月11日木曜日

テダ御川(てだうっかー)東御廻り 拝所6

テダとは太陽を意味する言葉で、太陽神がここに降臨したと伝えられている。その昔、国王や聞得大君が久高島を参拝するときには、無事に船が航海できるようにと祝女(ノロ)たちがオモロ(奄美・琉球に伝わる古い歌謡)を謡い、航路安全を祈願したのだとか。ここへは知念崎(ちねんさき)の灯台を過ぎ、坂を下っていくと辿り着くが、テダ御川と記された石碑と説明板がなければ、かつては井泉であったことを想像するのはむずかしい。

説明文によれば、昭和8年頃に背後の知名(ちな)グスクから採石したことが原因で、清水が枯れたという。しかし、目の前に真っ青な海が広がり、ほぼ真東の方向に久高島が見えるのは神聖な光景そのもの。東御廻りの聖地として、いまでも人々から崇められている。




2013年3月30日土曜日

場天御嶽(ばてんうたき)東御廻り 拝所4

琉球三山統一を果たした尚巴志(しょうはし)ゆかりの地。伊平屋島から佐敷に移り住んだその祖父・佐銘川大主(さめがわうふぬし)は、この場天御嶽に祀られている

イビ御嶽ほか6つの拝所が点在。東御廻りでこの地を拝するのは、王国と深く結びついた聖地としてはもちろん、先祖が使った御水に感謝するためとも語られている。

御天坐神 
旧場天御嶽からここに移転したものです。


イビ御嶽 
新里部落の守護神が祭られている御嶽です。

伊平屋神 「ヤマトゥバンタ」
 伊平屋への遥拝を行う丘にあった拝所をここに移転したものです。

場天御嶽 
尚巴志の祖父である佐銘川大主の住居跡だった場天御嶽(場天殿)を、ここに移転したものです。



2013年3月17日日曜日

佐敷上グスク(さしきうぃぐすく)東御廻り 拝所5

佐敷上グスクは331号線沿いの大きな鳥居から車で入れます。沖縄にも神道の神社はありますが神社以外ので御嶽(うたき)の入り口にも鳥居が立てられています。これは明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果であり、本来のものではありません。沖縄本島では戦後、鳥居が撤去された御嶽も多いそうです。

前の三つの拝所と違い、内地の神社のようです。

神社であればこれが拝殿になるのですが、何もありませんので通過させていただきます。

月代宮(つきしろのみや)。このグスクは琉球を統一して初代の琉球国王となった尚 巴志(しょう はし)とその父、尚 思紹(しょう ししょう)の居城跡とされている。月代宮(つきしろのみや)は尚父子を含む八体を合祀し、明治期に建立された。

月代宮のうしろにひっそりではありますが、何か存在感のあるところがあります。こちらが本来あった拝所ではないでしょうか。どちらとも、しっかり挨拶させていただきました。



2013年3月16日土曜日

親川(うぇーがー)東御廻り 拝所3

聞得大君の御新下りのときに、霊力を得る儀式・御水撫でが行なわれた霊泉。琉球国由来記によれば、御殿山に舞い降りた天女が御子を出産したときに、この親川の水を産井(うぶがー)に使ったと伝えられている。

町立綱曳資料館の広場内にあります。



2013年3月12日火曜日

御殿山(うどぅんやま)東御廻り 拝所2

与那原町与那原にある拝所。古くは海辺であったことから、別名「浜の御殿」とも呼ばれている。また、琉球古来の伝統社会について詳述されている琉球国由来記によれば、ここ御殿山の神名は「アマオレツカサ」で、天女が天から舞い降りた場所と記されている。御新下りと呼ばれる王国最高神女・聞得大君の即位儀礼の折にはこの地に仮御殿が造られ、聖水の儀式・御水撫で(うびなでぃ)を行なった。国王や聞得大君の聖なる島・久高島参詣の発着地でもあり、そのときも仮御殿が造られ、ここ与那原の浜から久高島へ渡った。拝所は沖縄戦によって消失し、現在は元の場所から若干移動。かつては門中の巡礼地にこの地は入っていなかったものの、王府とゆかりのある要所として、多くの参拝者が訪れる。







2013年3月11日月曜日

園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)東御廻り 拝所1

東御廻り(あがりうまーい)とは、沖縄民族の祖先といわれる「アマミキヨ族」が渡来して住みついたと伝えられる霊地(14ヶ所)を巡拝する旅です。ブログテーマの「沖縄慰霊巡拝」とは少し離れるようですが、四人に一人が亡くなられた沖縄住民の祖先であり、この沖縄の神様です。沖縄戦でこの土地(ご神体)もズタズタに傷つけられました。「沖縄慰霊巡拝」では沖縄戦戦没者の慰霊と平行して東御廻りなど沖縄の聖地なども巡礼していきたいと思っております。

東御廻り最初の拝所は首里の園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)

琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。この石門の背後に広がる森が本殿だという。日本の神道と同じく自然そのものが崇拝の対象ということだろう。





せっかくなので首里城の写真も少しだけご覧下さい。

歓会門(かんかいもん)

首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。

門の両側には石造の獅子像「シーサー」が一対のがあるが、これは魔除けの意味で置かれている。



広福門
「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。

奉神門(ほうしんもん)
「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。ここから先は有料。今回、中には入らなかったので写真はありません。あしからず。

首里森御嶽(すいむいうたき)
奉神門の手前、広福門のちょうど突き当たり奥の位置にあり、とても小さな木の茂みがその周囲を石積みの塀で囲まれています。この御嶽は琉球開闢神話にも登場して神が造られた聖地であるとされていて、琉球最古の古歌謡集「おもろさうし」にもよく詠まれているほどの歴史を持った御嶽。首里城ができる前からあった祈りの場所で、城内でもっとも神聖な場所のひとつ。 現在の状態は、1997年に復元されたものです。

龍樋(りゅうひ)
龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。  また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。  龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。




かつて首里城地下が旧日本軍の要塞となった事実は人々の記憶から薄れ、司令部壕の入り口さえも定かでなくなった。 しかし、戦争体験者が少なくなり、直接語り掛けることが難しくなりつつある今だからこそ、事実をありのままに伝える「戦争遺跡」の存在が注目され始めた。司令部壕構築にかかわった師範隊の生存者の間から「沖縄戦を忘れないためにも復元したほうがいい」「あからさまにして本当のことを知らさなければならない」「地下壕を平和のメッカにして公開してほしい」という声が上がっている。指定にかかわった高校教諭、吉浜忍さん(42)は次のように主張する。「首里城を『正の遺産』とすれば、司令部壕は『負の遺産』。地上と地下からのメッセージを通して戦争と文化は両立しないことを明確に教えてくれる。そのためにも司令部壕を文化財指定し、保存(復元)、公開を考えていくべきだ。このことが、訪れる人に真実の沖縄の歴史を語ってくれる」。司令部壕の存在と、そこから発せられる「地下からのメッセージ」は、軍隊と一般住民の関係など沖縄戦の実相を語ってくれる。次代に残すメッセージを掘り起こし、心に刻む作業は、まだ始まったばかり。

(32軍司令部壕取材班)  1992年8月13日琉球新報掲載




この壕の上は首里城公園の道路になっていて歓会門の近くなので多くの観光客が歩いていました。もちろん、真下が旧日本軍の司令部壕とは知らないで歩いている思います。この対極図を下から見ていると現代/過去を同時に見ているようでした。ただ写真では上下の明暗差がありすぎて地上が白くなってしまいました。





日本の敗戦が濃厚となった第2次世界大戦末期の1944(昭和19年)年3月15日に編成された沖縄の守備を担う陸軍・第32軍(沖縄守備軍)は、沖縄本島に司令部を置き奄美群島から先島諸島をその守備範囲として連合国軍の上陸に備えた。司令部は沖縄決戦(沖縄戦)に備え、首里城の地下一帯にコンクリートで固めた大規模な地下壕を構築した。   壕は、守礼門、園比屋武御嶽石門付近から金城町方向に延び、その規模は南北400メートル、総延長は1キロ超える。壕構築は1944年12月上旬に開始、沖縄師範学校男子部の学生らが動員された。6カ所の入口があり、1トン爆弾にも耐えられるという堅牢なものであった。翌45年1月、そこへ司令部が移された。同年4月1日連合軍が沖縄本島に上陸。司令部は、第62師団を配置し、戦略持久を展開、首里の北東嘉数~前田を主陣地第一線として血みどろの戦いを挑んだ。5月4日、軍は作戦を変更して米軍に総攻撃を敢行したが、惨憺(さんたん)たる結果をもたらした。米軍の猛攻撃を受けて首里が陥落した同月22日、司令部は壕を放棄、本島南部の摩文仁に撤退。軍民が混在する地上戦が南部で展開、犠牲者の増大を招いた。


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