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2013年5月5日日曜日

嘉数高台公園

嘉数高地は第六十二師団、約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成された精鋭部と、作戦場自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため十六日間も一進一退の死闘が展開されたが遂に日本軍は矢尽き刃折れ後退したが、しかし米軍にとっては「死の罠」「いまわしい丘」だと恐れられた程に両軍共に多くの尊い人命を失った激戦地である。勿論、沖縄に住む民間人も、この戦いの中で日本軍に避難を許されずに巻き添えになり、多くの方々が死んでいきました。

今は公園としてきれいに整備されていて家族連れや観光客などが公園に訪れている。

日本軍の陣地壕がまだ残されている。




両軍の損害
日本軍:64,000人 アメリカ軍:24,000人(12,000とも) いずれも戦死傷者。

沖縄戦で亡くなった朝鮮半島出身者386人を祀った“青丘之塔”

京都の塔(京都府)

嘉数に投入された第62師団独立混成旅団には京都出身兵が多く(約3500名)、そのほとんどが故郷を見ずに嘉数にて戦死しているため、摩文仁ではなく嘉数に“京都の塔”が建てられている。



島根の兵奮戦之地

沖縄式の拝所(ウガンジョ)

嘉数戦で使用されたトーチカが今も保存されている。

小銃弾のみで破壊されたトーチカが、往時の戦いの激しさを物語っている。

公園内には世界平和を願う地球儀をイメージした展望台があります。

 この展望台から普天間基地を離発着する米軍機を遠望できる。


より大きな地図で 嘉数高台公園 を表示


2013年3月13日水曜日

具志頭城跡公園周辺

 具志頭城跡公園(具志頭グスク跡)。案内板によればこのグスクが築城されたのは十四世紀初頭とされ、英祖王統第二代大成王の三男である具志頭按司によるものだといわれているようです。しかしグスクの跡はほとんど残っていません。その代わり、広々とした公園内は戦跡公園として整備されており公園内には土佐の塔、甲斐の塔、具志頭村の慰霊碑があります。

土佐の塔(高知県)
太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した高知県出身者18,545名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は832名。この塔は1956年に有志の手により建立された「高知県戦没者慰霊塔」をもとに新たに整備し建立したもの。塔石は高知県産の自然石(青石)。

土佐の塔からは果てしない紺碧の海が広がる。

慰霊顕彰碑(旧具志頭村)

第二次世界大戦で戦没した旧具志頭村民1,504名の名前を刻銘、慰霊顕彰する。

甲斐の塔(山梨県)
太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した山梨県出身者22,048名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は524名。「甲斐」は山梨県の旧国名である。

魄粋之塔 
昭和28年6月、旧具志頭村によって建立された納骨堂と慰霊碑。




どうか、安らかに。


2013年2月28日木曜日

真栄里地域

サイモン・B・バックナー中将戦死之跡碑

米第十軍指令官サイモン・B・バックナー中将は、沖縄を侵攻した米第十軍の司令官。
昭和20年6月18日、戦闘指揮中、守備軍の砲火によりこの地で死亡した。昭和27年、米軍の手により記念碑が設立されたが、昭和49年に米軍より、キャンプフォレスターに移設されたため、昭和50年6月に沖縄慰霊奉賛会により現在の碑が設立された。 

バックナー中将は自分の死の1週間前に 日本軍牛島中将宛に降伏勧告文書を打電しています。 

「第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ  牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。  貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。 私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。  然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の使用する所となりました。 この上、貴下が戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。  私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を救助せられる事を勧告します。  明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。  貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。  昭和20年6月11日 米軍上陸軍司令官 中将 サイモン・バクナー」

この降伏勧告文書は牛島中将に届いたのでしょうか。同じ司令官として通ずる気持ちはあったのでしょうか。私はあったと思います。いずれにしてもバックナー中将の死後間もない6月24日に牛島中将は自決をされました。

平和祈念公園の「平和の礎」には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれております。戦没者に敵も味方もありません。ここでも慰霊させていただきました。

ただただ、安らかに。

栄里之塔
糸満市真栄里部落一帯で戦没した第二十四師団歩兵第二十二連隊の佐藤少尉ほか将兵、住民12,000余名を祀る。

真栄里部落一帯は6月中旬、強力な火器で押し寄せる米軍に対して住民も交えて戦闘が繰り広げられたという。戦後、真栄里部落住民が周辺に散在していた遺骨を集め同塔を建て、納骨して祀った。

山形の塔(山形県)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域、その他で戦没した山形県出身者40,384名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は765名。この塔の立つ糸満市真栄里は山形県出身者で編成された第二十四師団歩兵第三十二連隊の終焉の地である。

歩兵第三十二連隊の終焉の地

萬魂之塔

塔の立つ糸満市国吉部落一帯で戦没した無名兵士4,000余名を祀る。戦後、国吉部落民が各地に散らばった遺骨を集めて洞窟に納め、のち、コンクリート製の塔を建立、祀ったもの。

白梅の塔

沖縄戦で戦没した沖縄県立第二高等女学校の稲福全栄校長他、職員、生徒、同窓生149名を祀る。沖縄戦では二高女は生徒46名が3月24日、軍に動員された。生徒たちは現八重背瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され負傷兵の看護にあたった。戦局が急迫すると新城分院に移動、看護活動を続けたが6月4日解散命令を受け、弾雨の中で死の彷徨を続けた。部隊の一部は解散後、国吉の壕に拠って看護活動に専念したが多くが犠牲となった。





お堂の脇に白梅学徒隊自決之壕があります。



壕の中はまた、あの黒い跡です。これを見ると、とても胸が痛みます。
ただただ、安らかに。

「ひめゆりの塔」は平和学習の場(役目)となっていて、毎日多くの観光バスと観光客が訪れている。でも、この場所はとても穏やかな空気が流れていています。聞えるのは木の葉と鳥や虫の声だけです。

また、来ます。



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2013年2月15日金曜日

米須霊域

ひめゆりの塔からもほど近い地域に米須霊域があります。ここには都道県の慰霊碑と戦後最初に沖縄で作られた魂魄の塔があります。ここでも全ての慰霊塔を慰霊巡拝します。



ひむかいの塔(宮崎県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した宮崎県出身者31,237名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,848名。「ひむかい」は宮崎県の旧国名「日向」による。沖縄産の礎石の上に宮崎県産の塔石が置かれている。

ずいせんの塔(沖縄県)

沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、生徒33名、同窓生56名を祀る。沖縄戦で駆り出された学徒隊は、「ひめゆり学徒隊」ばかりではありません。他にも白梅学徒隊、積徳学徒隊、梯梧(でいご)学徒隊など、たくさんの女学生が従軍看護部隊として組織されたのです。5月、戦況の悪化と伴い浦添から首里、摩文仁と傷病兵の看護を続けながら転々とする過程で多くの犠牲者を出したうえに、6月19日の解散命令のあと多くは糸満市米須、伊原一帯で非業の死を遂げた。


魂魄の塔

戦後最初に沖縄で作られた慰霊碑。沖縄で最大の慰霊塔でもある。沖縄戦が終結した1946年1月、米軍の指示によって各収容所から摩文仁村米須に移動させられた旧真和志村の村民が金城和信村長の指導のもと米軍の許可を得て遺骨収集班(収骨隊)を作り、摩文仁の野に風雨にさらされていた幾万の遺骨を集め、納骨所を造り祀ったもの。
納骨所は米軍提供のセメントや古寝台の鉄骨を使い周囲から石を積み上げて作ったという。その後も集骨作業は続けられ、やがて35,000余名を納める最大の慰霊塔となった。遺骨は1975年1月戦没者中央納骨所へ納骨され、さらに79年、国立戦没者墓苑に移された。

   魂魄(こんぱく)とは、「魂」は「たましい」、「魄」は浮遊霊の意味である。

「ひめゆりの塔」建立の中心にもなった金城和信(きんじょうわしん)。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任、真和志村村長(沖縄戦で2人の愛娘を戦死させた村長夫婦は、旧陸軍第3外科壕周辺の遺骨を収集し、1946年4月5日に「ひめゆりの塔」を、また、同年4月9日に男子学生を祀る「健児の塔」を建立した。そして住民と協力して周辺に散らばった遺骨を収集し、魂魄の塔の建立に貢献 しました。

紀伊國之塔(和歌山県)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域で戦没した和歌山県出身者19,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は901名。

大和の塔(奈良県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した奈良県出身者15,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は587名。塔は法隆寺に残る「百万塔」を象っている。

北霊碑(北海道)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した北海道出身者33,652名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は10,786名。沖縄戦では北海道出身者が沖縄を除く全都道府県で最も多い犠牲者を出した。また、この塔は全都道府県で最初に建立された塔である。

大分の塔(大分県)

沖縄戦で戦没した大分県出身者1,476名を祀る。塔石は大分県の名所耶馬渓産の霊石。

ひろしまの塔(広島県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した広島県出身者34,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,331名。故郷広島の方角に向かって立つ、沖縄民家の「ひんぷん」を模した。中央の3本柱は死者を意味し、副体の「こどもたちと鳥」のデザインは子供達が太陽に向かって永遠の平和を祈り、死者の霊が金色の鳥となって天に上がる情景を示している。献花台の下には戦死者の名前を刻んだ霊石が納められている。

讃岐の奉公塔(香川県)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域で戦没した香川県出身者32,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,338名。「讃岐」は香川の旧国名。塔は香川県の郷土人形の「奉公さん」を象ったものである。

因伯の塔(鳥取県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した鳥取県出身者13,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は522名。塔名の「因伯」は鳥取の旧国名「因幡」と「伯耆(ほうき)」による。

島根の塔(島根県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した島根県出身者739名を祀る。ドーム型の塔は出雲地方の民家の茅葺き屋根を象ったもの。碑文には「美しく花開くためにはそのかくれた根のたえまない営みがあるように、私達の平和で心静かな日々には、この地に散ったあなた達の深い悲しみと苦しみが そのいしずえとなっていることを思い、ここに深い祈りを捧げます」

開南健児の塔(沖縄県)

沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名を祀る。沖縄戦では同校は在校生68名が動員された。生徒たちは鉄血勤皇隊、通信隊を組織し第六十二師団独立歩兵第二十三大隊、同師団司令部等に配属された。生徒たちの任務の詳細は不明な点が多いが斬り込み隊に参加させられる者もいて約66名の犠牲を出した。

東京の塔(東京都)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域で戦没した東京都関係者103,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は6,500名。遺族の代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めた基壇には建設当時の23区、23市、9町、9村を象徴する64個の石で構成された塚が置かれ、その上に船型式の黒御影石でできた塔が据えられている。上段広場は沖縄産の粟石を積んだ石垣が囲っている。

米須霊域のある、この地は沖縄戦でも一番の激戦地であり日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍(しかばね)が最も多い激戦地の跡である。

現在の米須霊域のまわりはサトウキビ畑が拡がりとてものどかで時間が止まったような静かさです。周辺には平和創造の森公園もあり、目の前の海岸はスーサイドという沖縄サーフポイントのメッカで一年中、県内外からサーファーが訪れます。

戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのが米須霊域の中心にある魂魄の塔である。(現在、ご遺骨は平和祈念公園の国立沖縄戦没者墓苑に移されている)

摩文仁(平和祈念公園)や、この米須を中心に、沖縄県を除く全国46都道府県の華やかで立派な慰霊の塔があります(中には質素なものも)。もちろん、各都道府県は沖縄で没した各出身の御霊を安らかに鎮めるためにと建立されたのだと思います。ちなみに「沖縄県の慰霊塔」は存在しません。しかし、この魂魄の塔こそが沖縄県の慰霊碑である、とも言われています。

塔のデザインコンセプトも無ければ、当然ながら貴重な石も使ってありません。ただ、遺骨と石を積み上げて行き米軍からもらったセメントで固めて自然にこの形になったのだと思います。