2013年3月16日土曜日

親川(うぇーがー)東御廻り 拝所3

聞得大君の御新下りのときに、霊力を得る儀式・御水撫でが行なわれた霊泉。琉球国由来記によれば、御殿山に舞い降りた天女が御子を出産したときに、この親川の水を産井(うぶがー)に使ったと伝えられている。

町立綱曳資料館の広場内にあります。



2013年3月13日水曜日

具志頭城跡公園周辺

 具志頭城跡公園(具志頭グスク跡)。案内板によればこのグスクが築城されたのは十四世紀初頭とされ、英祖王統第二代大成王の三男である具志頭按司によるものだといわれているようです。しかしグスクの跡はほとんど残っていません。その代わり、広々とした公園内は戦跡公園として整備されており公園内には土佐の塔、甲斐の塔、具志頭村の慰霊碑があります。

土佐の塔(高知県)
太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した高知県出身者18,545名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は832名。この塔は1956年に有志の手により建立された「高知県戦没者慰霊塔」をもとに新たに整備し建立したもの。塔石は高知県産の自然石(青石)。

土佐の塔からは果てしない紺碧の海が広がる。

慰霊顕彰碑(旧具志頭村)

第二次世界大戦で戦没した旧具志頭村民1,504名の名前を刻銘、慰霊顕彰する。

甲斐の塔(山梨県)
太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した山梨県出身者22,048名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は524名。「甲斐」は山梨県の旧国名である。

魄粋之塔 
昭和28年6月、旧具志頭村によって建立された納骨堂と慰霊碑。




どうか、安らかに。


2013年3月12日火曜日

御殿山(うどぅんやま)東御廻り 拝所2

与那原町与那原にある拝所。古くは海辺であったことから、別名「浜の御殿」とも呼ばれている。また、琉球古来の伝統社会について詳述されている琉球国由来記によれば、ここ御殿山の神名は「アマオレツカサ」で、天女が天から舞い降りた場所と記されている。御新下りと呼ばれる王国最高神女・聞得大君の即位儀礼の折にはこの地に仮御殿が造られ、聖水の儀式・御水撫で(うびなでぃ)を行なった。国王や聞得大君の聖なる島・久高島参詣の発着地でもあり、そのときも仮御殿が造られ、ここ与那原の浜から久高島へ渡った。拝所は沖縄戦によって消失し、現在は元の場所から若干移動。かつては門中の巡礼地にこの地は入っていなかったものの、王府とゆかりのある要所として、多くの参拝者が訪れる。







2013年3月11日月曜日

園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)東御廻り 拝所1

東御廻り(あがりうまーい)とは、沖縄民族の祖先といわれる「アマミキヨ族」が渡来して住みついたと伝えられる霊地(14ヶ所)を巡拝する旅です。ブログテーマの「沖縄慰霊巡拝」とは少し離れるようですが、四人に一人が亡くなられた沖縄住民の祖先であり、この沖縄の神様です。沖縄戦でこの土地(ご神体)もズタズタに傷つけられました。「沖縄慰霊巡拝」では沖縄戦戦没者の慰霊と平行して東御廻りなど沖縄の聖地なども巡礼していきたいと思っております。

東御廻り最初の拝所は首里の園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)

琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。この石門の背後に広がる森が本殿だという。日本の神道と同じく自然そのものが崇拝の対象ということだろう。





せっかくなので首里城の写真も少しだけご覧下さい。

歓会門(かんかいもん)

首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。

門の両側には石造の獅子像「シーサー」が一対のがあるが、これは魔除けの意味で置かれている。



広福門
「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。

奉神門(ほうしんもん)
「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。ここから先は有料。今回、中には入らなかったので写真はありません。あしからず。

首里森御嶽(すいむいうたき)
奉神門の手前、広福門のちょうど突き当たり奥の位置にあり、とても小さな木の茂みがその周囲を石積みの塀で囲まれています。この御嶽は琉球開闢神話にも登場して神が造られた聖地であるとされていて、琉球最古の古歌謡集「おもろさうし」にもよく詠まれているほどの歴史を持った御嶽。首里城ができる前からあった祈りの場所で、城内でもっとも神聖な場所のひとつ。 現在の状態は、1997年に復元されたものです。

龍樋(りゅうひ)
龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。  また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。  龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。




かつて首里城地下が旧日本軍の要塞となった事実は人々の記憶から薄れ、司令部壕の入り口さえも定かでなくなった。 しかし、戦争体験者が少なくなり、直接語り掛けることが難しくなりつつある今だからこそ、事実をありのままに伝える「戦争遺跡」の存在が注目され始めた。司令部壕構築にかかわった師範隊の生存者の間から「沖縄戦を忘れないためにも復元したほうがいい」「あからさまにして本当のことを知らさなければならない」「地下壕を平和のメッカにして公開してほしい」という声が上がっている。指定にかかわった高校教諭、吉浜忍さん(42)は次のように主張する。「首里城を『正の遺産』とすれば、司令部壕は『負の遺産』。地上と地下からのメッセージを通して戦争と文化は両立しないことを明確に教えてくれる。そのためにも司令部壕を文化財指定し、保存(復元)、公開を考えていくべきだ。このことが、訪れる人に真実の沖縄の歴史を語ってくれる」。司令部壕の存在と、そこから発せられる「地下からのメッセージ」は、軍隊と一般住民の関係など沖縄戦の実相を語ってくれる。次代に残すメッセージを掘り起こし、心に刻む作業は、まだ始まったばかり。

(32軍司令部壕取材班)  1992年8月13日琉球新報掲載




この壕の上は首里城公園の道路になっていて歓会門の近くなので多くの観光客が歩いていました。もちろん、真下が旧日本軍の司令部壕とは知らないで歩いている思います。この対極図を下から見ていると現代/過去を同時に見ているようでした。ただ写真では上下の明暗差がありすぎて地上が白くなってしまいました。





日本の敗戦が濃厚となった第2次世界大戦末期の1944(昭和19年)年3月15日に編成された沖縄の守備を担う陸軍・第32軍(沖縄守備軍)は、沖縄本島に司令部を置き奄美群島から先島諸島をその守備範囲として連合国軍の上陸に備えた。司令部は沖縄決戦(沖縄戦)に備え、首里城の地下一帯にコンクリートで固めた大規模な地下壕を構築した。   壕は、守礼門、園比屋武御嶽石門付近から金城町方向に延び、その規模は南北400メートル、総延長は1キロ超える。壕構築は1944年12月上旬に開始、沖縄師範学校男子部の学生らが動員された。6カ所の入口があり、1トン爆弾にも耐えられるという堅牢なものであった。翌45年1月、そこへ司令部が移された。同年4月1日連合軍が沖縄本島に上陸。司令部は、第62師団を配置し、戦略持久を展開、首里の北東嘉数~前田を主陣地第一線として血みどろの戦いを挑んだ。5月4日、軍は作戦を変更して米軍に総攻撃を敢行したが、惨憺(さんたん)たる結果をもたらした。米軍の猛攻撃を受けて首里が陥落した同月22日、司令部は壕を放棄、本島南部の摩文仁に撤退。軍民が混在する地上戦が南部で展開、犠牲者の増大を招いた。


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2013年3月9日土曜日

忠霊之塔

忠霊之塔(南城市冨祖崎原)

建立、昭和32年(建立者、 屋比孟三郎)合祀柱数(総計42、内沖縄戦戦没者33)
場所は南城市冨祖崎公園近く



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佐敷の慰霊塔

佐敷の慰霊塔(南城市佐敷)

 建立、昭和28年(建立者、仲里清徳)合祀柱数(総計68、内沖縄戦戦没65) 場所は沖縄の聖地を巡る「東御廻り」の佐敷上グスクの霊域内にある。



2013年3月6日水曜日

二本松の壕

二本松の壕(詳細不明)

どこの壕にもある徹底した米軍の火炎放射攻撃の跡。

逃げ場の無い洞窟。敵兵がこの光に影となって見えたときはどんな気持ちだったのだろうか。

どうか、安らかに。