陸と海から挟み撃ち
ギーザバンタ。本島南部、喜屋武岬と続くこの一帯は、岩はだの険しい、高さ数十メートルの絶壁が目の前に迫り、雄大なさまを見せつける。大岩がごろごろ海岸線に続いている。昭和20年5月末、浦添・首里の攻防戦で敗れた沖縄守備軍はジリジリと、南部に追いつめられていった。それとともに多くの民間人も逃げ場を求め、南部へ、摩文仁へと放心状態で足を向けていた。その数、およそ兵3万、民間人10万人余といわれる。わずか東西7キロの喜屋武半島にそれらの人々が砂糖に群がるアリのように集まっていた。
陸からは勢いづいた米軍の機銃が、海上には米小型艦がおり、挟み撃ちの中で悲惨な状況が繰り広げられた。摩文仁にある沖縄県立平和祈念資料館を訪ねた。展示されてある民間人の戦争体験記の中にギーザバンタの様子を書いたものがある。「アダンの下にもぐっていたときですね。血やら人の肉やらが飛んできましたよ。―上から降ってきましたよ。何だろうと思った。着ているキモノにくっついたですよ」 大城堅輝館長と資料館裏手で岩はだの岬を見た。数千、数万人の命をのみ込んだ絶壁を見た。鉄血勤皇師範隊として沖縄戦に加わった諸見守康さん(55)=宜野湾小校長=はギーザバンタで捕虜にとられ、実質的な終戦を迎えた。「岩はだで足が痛いんですよ。周りは真っ暗だし、少し歩くと何かにぶつかる。よく見るとそれが死体なんです。1体や2体じゃないですよ。無数に死体がありまして、避けて歩くのに大変なほどの数でした」
海上の米小型艦はスピーカーで何度も投降を呼び掛けていた。「船に乗っている米兵が双眼鏡でこちらを見てるのが分かるほど」の距離だった。銃を持っている日本兵を発見すると「銃を捨てなさい」と呼び掛け、隠れると「あと何分の間に捨てないと撃つぞ」と脅した。銃を捨てると「その調子。ありがとう」と叫んだ、という。最初は恐怖におびえていた民間人も、やがて1人、2人と投降に応じるようになり、がけの片隅には投降した日本兵の武器が山となった。「6月22日だったと思います。私も捕虜になりました。でも半面では安心したような気持ちもありました」と諸見さんは語った。与那嶺盛昭さん(55)=与那原町字与那原=もギーザバンタで忘れ得ぬ辛い思い出を持っている。与那嶺さんは、父や親せきの人ら8人で出身地の大里から玉城、具志頭と戦火を避け、南下、摩文仁へと来た。「あのがけをツルをつたって降りたのはいいですが、途中で艦砲射撃に遭うなど大変でした。その時おじが岩の破片を受け即死しました。カンプーをゆった50代ぐらいのおばさんたち4~5人も死んでました。腕がなかったり、首が切れたりして、何ともいえない光景でした」。
ギーザバンタの下にこんこんとあふれるわき水がある。当時もわき出る水で多くの人の命を救ったわき水だ。「敵に捕まるまいと思い、懸命に逃げたのです。そのうちのどがかわいてきて、見るとわき水があったので、これ幸いとたらふく飲んだのはいいですが、腹がふくらんだら、水が臭いのに気づいたんです」と与那嶺さん。諸見さんも「あのわき水の回りは死体がごろごろしていました。でもみんな飲んだでしょうね」と語る。わき水は今もあふれ出ている。
(「戦禍を掘る」取材班)
1984年2月2日 琉球新報掲載から抜粋させていただきました。
※写真はそのわき水ではありません。