2013年2月15日金曜日

米須霊域

ひめゆりの塔からもほど近い地域に米須霊域があります。ここには都道県の慰霊碑と戦後最初に沖縄で作られた魂魄の塔があります。ここでも全ての慰霊塔を慰霊巡拝します。



ひむかいの塔(宮崎県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した宮崎県出身者31,237名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,848名。「ひむかい」は宮崎県の旧国名「日向」による。沖縄産の礎石の上に宮崎県産の塔石が置かれている。

ずいせんの塔(沖縄県)

沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、生徒33名、同窓生56名を祀る。沖縄戦で駆り出された学徒隊は、「ひめゆり学徒隊」ばかりではありません。他にも白梅学徒隊、積徳学徒隊、梯梧(でいご)学徒隊など、たくさんの女学生が従軍看護部隊として組織されたのです。5月、戦況の悪化と伴い浦添から首里、摩文仁と傷病兵の看護を続けながら転々とする過程で多くの犠牲者を出したうえに、6月19日の解散命令のあと多くは糸満市米須、伊原一帯で非業の死を遂げた。


魂魄の塔

戦後最初に沖縄で作られた慰霊碑。沖縄で最大の慰霊塔でもある。沖縄戦が終結した1946年1月、米軍の指示によって各収容所から摩文仁村米須に移動させられた旧真和志村の村民が金城和信村長の指導のもと米軍の許可を得て遺骨収集班(収骨隊)を作り、摩文仁の野に風雨にさらされていた幾万の遺骨を集め、納骨所を造り祀ったもの。
納骨所は米軍提供のセメントや古寝台の鉄骨を使い周囲から石を積み上げて作ったという。その後も集骨作業は続けられ、やがて35,000余名を納める最大の慰霊塔となった。遺骨は1975年1月戦没者中央納骨所へ納骨され、さらに79年、国立戦没者墓苑に移された。

   魂魄(こんぱく)とは、「魂」は「たましい」、「魄」は浮遊霊の意味である。

「ひめゆりの塔」建立の中心にもなった金城和信(きんじょうわしん)。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任、真和志村村長(沖縄戦で2人の愛娘を戦死させた村長夫婦は、旧陸軍第3外科壕周辺の遺骨を収集し、1946年4月5日に「ひめゆりの塔」を、また、同年4月9日に男子学生を祀る「健児の塔」を建立した。そして住民と協力して周辺に散らばった遺骨を収集し、魂魄の塔の建立に貢献 しました。

紀伊國之塔(和歌山県)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域で戦没した和歌山県出身者19,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は901名。

大和の塔(奈良県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した奈良県出身者15,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は587名。塔は法隆寺に残る「百万塔」を象っている。

北霊碑(北海道)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した北海道出身者33,652名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は10,786名。沖縄戦では北海道出身者が沖縄を除く全都道府県で最も多い犠牲者を出した。また、この塔は全都道府県で最初に建立された塔である。

大分の塔(大分県)

沖縄戦で戦没した大分県出身者1,476名を祀る。塔石は大分県の名所耶馬渓産の霊石。

ひろしまの塔(広島県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した広島県出身者34,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,331名。故郷広島の方角に向かって立つ、沖縄民家の「ひんぷん」を模した。中央の3本柱は死者を意味し、副体の「こどもたちと鳥」のデザインは子供達が太陽に向かって永遠の平和を祈り、死者の霊が金色の鳥となって天に上がる情景を示している。献花台の下には戦死者の名前を刻んだ霊石が納められている。

讃岐の奉公塔(香川県)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域で戦没した香川県出身者32,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は1,338名。「讃岐」は香川の旧国名。塔は香川県の郷土人形の「奉公さん」を象ったものである。

因伯の塔(鳥取県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した鳥取県出身者13,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は522名。塔名の「因伯」は鳥取の旧国名「因幡」と「伯耆(ほうき)」による。

島根の塔(島根県)

太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した島根県出身者739名を祀る。ドーム型の塔は出雲地方の民家の茅葺き屋根を象ったもの。碑文には「美しく花開くためにはそのかくれた根のたえまない営みがあるように、私達の平和で心静かな日々には、この地に散ったあなた達の深い悲しみと苦しみが そのいしずえとなっていることを思い、ここに深い祈りを捧げます」

開南健児の塔(沖縄県)

沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名を祀る。沖縄戦では同校は在校生68名が動員された。生徒たちは鉄血勤皇隊、通信隊を組織し第六十二師団独立歩兵第二十三大隊、同師団司令部等に配属された。生徒たちの任務の詳細は不明な点が多いが斬り込み隊に参加させられる者もいて約66名の犠牲を出した。

東京の塔(東京都)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域で戦没した東京都関係者103,000名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は6,500名。遺族の代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めた基壇には建設当時の23区、23市、9町、9村を象徴する64個の石で構成された塚が置かれ、その上に船型式の黒御影石でできた塔が据えられている。上段広場は沖縄産の粟石を積んだ石垣が囲っている。

米須霊域のある、この地は沖縄戦でも一番の激戦地であり日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍(しかばね)が最も多い激戦地の跡である。

現在の米須霊域のまわりはサトウキビ畑が拡がりとてものどかで時間が止まったような静かさです。周辺には平和創造の森公園もあり、目の前の海岸はスーサイドという沖縄サーフポイントのメッカで一年中、県内外からサーファーが訪れます。

戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのが米須霊域の中心にある魂魄の塔である。(現在、ご遺骨は平和祈念公園の国立沖縄戦没者墓苑に移されている)

摩文仁(平和祈念公園)や、この米須を中心に、沖縄県を除く全国46都道府県の華やかで立派な慰霊の塔があります(中には質素なものも)。もちろん、各都道府県は沖縄で没した各出身の御霊を安らかに鎮めるためにと建立されたのだと思います。ちなみに「沖縄県の慰霊塔」は存在しません。しかし、この魂魄の塔こそが沖縄県の慰霊碑である、とも言われています。

塔のデザインコンセプトも無ければ、当然ながら貴重な石も使ってありません。ただ、遺骨と石を積み上げて行き米軍からもらったセメントで固めて自然にこの形になったのだと思います。