2013年3月11日月曜日

園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)東御廻り 拝所1

東御廻り(あがりうまーい)とは、沖縄民族の祖先といわれる「アマミキヨ族」が渡来して住みついたと伝えられる霊地(14ヶ所)を巡拝する旅です。ブログテーマの「沖縄慰霊巡拝」とは少し離れるようですが、四人に一人が亡くなられた沖縄住民の祖先であり、この沖縄の神様です。沖縄戦でこの土地(ご神体)もズタズタに傷つけられました。「沖縄慰霊巡拝」では沖縄戦戦没者の慰霊と平行して東御廻りなど沖縄の聖地なども巡礼していきたいと思っております。

東御廻り最初の拝所は首里の園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)

琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。この石門の背後に広がる森が本殿だという。日本の神道と同じく自然そのものが崇拝の対象ということだろう。





せっかくなので首里城の写真も少しだけご覧下さい。

歓会門(かんかいもん)

首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。

門の両側には石造の獅子像「シーサー」が一対のがあるが、これは魔除けの意味で置かれている。



広福門
「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。

奉神門(ほうしんもん)
「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。ここから先は有料。今回、中には入らなかったので写真はありません。あしからず。

首里森御嶽(すいむいうたき)
奉神門の手前、広福門のちょうど突き当たり奥の位置にあり、とても小さな木の茂みがその周囲を石積みの塀で囲まれています。この御嶽は琉球開闢神話にも登場して神が造られた聖地であるとされていて、琉球最古の古歌謡集「おもろさうし」にもよく詠まれているほどの歴史を持った御嶽。首里城ができる前からあった祈りの場所で、城内でもっとも神聖な場所のひとつ。 現在の状態は、1997年に復元されたものです。

龍樋(りゅうひ)
龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。  また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。  龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。




かつて首里城地下が旧日本軍の要塞となった事実は人々の記憶から薄れ、司令部壕の入り口さえも定かでなくなった。 しかし、戦争体験者が少なくなり、直接語り掛けることが難しくなりつつある今だからこそ、事実をありのままに伝える「戦争遺跡」の存在が注目され始めた。司令部壕構築にかかわった師範隊の生存者の間から「沖縄戦を忘れないためにも復元したほうがいい」「あからさまにして本当のことを知らさなければならない」「地下壕を平和のメッカにして公開してほしい」という声が上がっている。指定にかかわった高校教諭、吉浜忍さん(42)は次のように主張する。「首里城を『正の遺産』とすれば、司令部壕は『負の遺産』。地上と地下からのメッセージを通して戦争と文化は両立しないことを明確に教えてくれる。そのためにも司令部壕を文化財指定し、保存(復元)、公開を考えていくべきだ。このことが、訪れる人に真実の沖縄の歴史を語ってくれる」。司令部壕の存在と、そこから発せられる「地下からのメッセージ」は、軍隊と一般住民の関係など沖縄戦の実相を語ってくれる。次代に残すメッセージを掘り起こし、心に刻む作業は、まだ始まったばかり。

(32軍司令部壕取材班)  1992年8月13日琉球新報掲載




この壕の上は首里城公園の道路になっていて歓会門の近くなので多くの観光客が歩いていました。もちろん、真下が旧日本軍の司令部壕とは知らないで歩いている思います。この対極図を下から見ていると現代/過去を同時に見ているようでした。ただ写真では上下の明暗差がありすぎて地上が白くなってしまいました。





日本の敗戦が濃厚となった第2次世界大戦末期の1944(昭和19年)年3月15日に編成された沖縄の守備を担う陸軍・第32軍(沖縄守備軍)は、沖縄本島に司令部を置き奄美群島から先島諸島をその守備範囲として連合国軍の上陸に備えた。司令部は沖縄決戦(沖縄戦)に備え、首里城の地下一帯にコンクリートで固めた大規模な地下壕を構築した。   壕は、守礼門、園比屋武御嶽石門付近から金城町方向に延び、その規模は南北400メートル、総延長は1キロ超える。壕構築は1944年12月上旬に開始、沖縄師範学校男子部の学生らが動員された。6カ所の入口があり、1トン爆弾にも耐えられるという堅牢なものであった。翌45年1月、そこへ司令部が移された。同年4月1日連合軍が沖縄本島に上陸。司令部は、第62師団を配置し、戦略持久を展開、首里の北東嘉数~前田を主陣地第一線として血みどろの戦いを挑んだ。5月4日、軍は作戦を変更して米軍に総攻撃を敢行したが、惨憺(さんたん)たる結果をもたらした。米軍の猛攻撃を受けて首里が陥落した同月22日、司令部は壕を放棄、本島南部の摩文仁に撤退。軍民が混在する地上戦が南部で展開、犠牲者の増大を招いた。


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