第24師団第一野戦病院壕は東風平町富盛にある、八重瀬岳中腹にあります。白梅学徒看護隊が動員していたことでも有名な壕で、「上の壕」と「下の壕」の2つの壕があります。
1945年3月24日~1945年6月3日まで病院壕として使用されていましたが、戦況の悪化に伴い解散、そして撤退しました。激しい地上戦の中、傷病兵の看護にあたった証言者の話によると、壕に入りきれないほどの負傷兵が運ばれ、十分な看護の手も及ばず、学徒も24時間勤務していたそうです。壕内では患者のうめき声に満ち、排泄物などの悪臭が漂い、患者の体にはウジも湧いている状況で劣悪で苛酷な環境だったそうです。
まずは壕に入る前に入り口で手を合わせます。「どうか、安らかに」
採石場をさらに掘り込んだ壕で下の本部壕と同じく竹を組んだ2段ベッドが50〜60床ほど、岩壁に沿って一列に奥へと並んでおり、前線から運び込まれる負傷兵で溢れていた。
手術は連日夕刻から明け方まで軍医、衛生兵、看護婦によって行われた。手足を切断する必要のある患者は上の壕に移され、切り落とされた手足は箱詰めにして砲弾の穴に学徒たちが埋めた。
負傷兵の運搬は主として防衛隊員や義勇隊員だったが、戦線からの負傷兵は東風平郵便局広場に運ばれ、そこから本部壕やヌヌマチガマに運ばれた。
車は下の大通りで止まるので、車から壕までは担架に乗せて運んだが、雨の日は大変だった。最初は昼間も運んでいたが、その後夕方を待って行動するのが日課になっていった。4人で負傷兵を運ぶが弾が飛んでくると、患者はそのまま置いて隠れていた。軽傷者から重傷者までいたが、生き延びそうな負傷兵を運び、そうでない負傷兵はそのまま置き去りにされた。
本部では夕方、遺体を付近の畑に穴を掘り埋める作業が毎日続いた。多い日は40体ぐらい。初めの頃は棺桶に入れて埋めたが。後はそのまま埋めただけではなく、場所がなくなり前に埋めた棺や遺体の上に重ねて土を盛り上げて埋め、しまいには爆弾穴に放り込まれた。
6月3日、分院はそれぞれ閉鎖して本部に合流、高嶺村(現糸満市)国吉に移動することとなった。そして6月4日、学徒隊には解散命令が出された。その時、負傷兵に対する「原隊」復帰の呼びかけが学徒隊最後の任務だった。
沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」より引用