2013年2月28日木曜日

真栄里地域

サイモン・B・バックナー中将戦死之跡碑

米第十軍指令官サイモン・B・バックナー中将は、沖縄を侵攻した米第十軍の司令官。
昭和20年6月18日、戦闘指揮中、守備軍の砲火によりこの地で死亡した。昭和27年、米軍の手により記念碑が設立されたが、昭和49年に米軍より、キャンプフォレスターに移設されたため、昭和50年6月に沖縄慰霊奉賛会により現在の碑が設立された。 

バックナー中将は自分の死の1週間前に 日本軍牛島中将宛に降伏勧告文書を打電しています。 

「第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ  牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。  貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。 私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。  然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の使用する所となりました。 この上、貴下が戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。  私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を救助せられる事を勧告します。  明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。  貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。  昭和20年6月11日 米軍上陸軍司令官 中将 サイモン・バクナー」

この降伏勧告文書は牛島中将に届いたのでしょうか。同じ司令官として通ずる気持ちはあったのでしょうか。私はあったと思います。いずれにしてもバックナー中将の死後間もない6月24日に牛島中将は自決をされました。

平和祈念公園の「平和の礎」には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれております。戦没者に敵も味方もありません。ここでも慰霊させていただきました。

ただただ、安らかに。

栄里之塔
糸満市真栄里部落一帯で戦没した第二十四師団歩兵第二十二連隊の佐藤少尉ほか将兵、住民12,000余名を祀る。

真栄里部落一帯は6月中旬、強力な火器で押し寄せる米軍に対して住民も交えて戦闘が繰り広げられたという。戦後、真栄里部落住民が周辺に散在していた遺骨を集め同塔を建て、納骨して祀った。

山形の塔(山形県)

第二次世界大戦中、沖縄、南方諸地域、その他で戦没した山形県出身者40,384名を祀る。うち沖縄戦での戦没者は765名。この塔の立つ糸満市真栄里は山形県出身者で編成された第二十四師団歩兵第三十二連隊の終焉の地である。

歩兵第三十二連隊の終焉の地

萬魂之塔

塔の立つ糸満市国吉部落一帯で戦没した無名兵士4,000余名を祀る。戦後、国吉部落民が各地に散らばった遺骨を集めて洞窟に納め、のち、コンクリート製の塔を建立、祀ったもの。

白梅の塔

沖縄戦で戦没した沖縄県立第二高等女学校の稲福全栄校長他、職員、生徒、同窓生149名を祀る。沖縄戦では二高女は生徒46名が3月24日、軍に動員された。生徒たちは現八重背瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され負傷兵の看護にあたった。戦局が急迫すると新城分院に移動、看護活動を続けたが6月4日解散命令を受け、弾雨の中で死の彷徨を続けた。部隊の一部は解散後、国吉の壕に拠って看護活動に専念したが多くが犠牲となった。





お堂の脇に白梅学徒隊自決之壕があります。



壕の中はまた、あの黒い跡です。これを見ると、とても胸が痛みます。
ただただ、安らかに。

「ひめゆりの塔」は平和学習の場(役目)となっていて、毎日多くの観光バスと観光客が訪れている。でも、この場所はとても穏やかな空気が流れていています。聞えるのは木の葉と鳥や虫の声だけです。

また、来ます。



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2013年2月24日日曜日

喜屋武岬

平和の塔

糸満市喜屋武部落一帯、周辺海岸で戦没した軍人、住民10,000余名を祀る。(さらっと読み過ごさないで下さい、一万人です!)沖縄戦が終焉に近づくころ、守備隊将校や住民は押し寄せてくる米軍に本島最南端の喜屋武半島の一角に押込められ、激しい集中砲撃にさらされ数えきれないほどの犠牲者を出した。

第六十二師団は二十二日、ついに力尽き、師団長以下師団幹部が自決して玉砕した。翌日、摩文仁の軍司令部では牛島軍司令官と長参謀長が自決、軍としての組織的戦闘に終止符を打った。軍は壊滅し、岬の戦場に取り残された一般住民は悲惨であった。ある者は手榴弾などで自決し、またある者は岬の崖から身を投げるなどして多くの人々が悲惨な最期を遂げた。さらに、ここから望む南端部は「ひめゆり学徒隊散華の跡」がある荒崎海岸です。

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2013年2月23日土曜日

マヤーガマ

糸満市米須霊域の魂魄之塔を見守るかのような丘にある平和創造の森公園。1993年に天皇皇后両陛下を迎えて行われた第44回全国植樹祭の会場を新たに整備し、1998年に開園した公園です。

とても広くて手入れも良くされているのですが、人が全く居ないのです。その公園内に「マヤーガマ」があります。説明には「このガマは、地元ではマヤーガマと呼ばれ、第二次世界大戦中の昭和19年11月頃から20年3月の間、山城集落の住民の約1/3が避難し尊い命をまもった場所でもあります。今でも、地元住民は畏敬の念をもって「ガマ」を守っています」となっています。

案内標識から一歩入れば鬱蒼としたジャングルです。

ガマはすぐ現れました。三層のガマで当時、山城の住民が約100人避難していたので奥行きはかなりあると思います。

私はガマの入り口で香花水(線香を焚き、野花を献花し水を少し撒き)と祈りを捧げました。


ただただ、安らかに。


2013年2月22日金曜日

摩文仁遺骨収集奉仕 2

摩文仁の遺骨収集二日目。この日も8時50分に旧慰霊奉賛会事務所前(平和祈念公園内)集合です。気温も高く天候にも恵まれました。

皆さん、本日も宜しくお願いいたします。

早速、昨日のご遺骨発見現場に入りました。まずは露出しているご遺骨を拾っています。

集めたご遺骨がどの部位なのか骨の名称の解説書を見ながら並べていきます。ベテランの方は見ただけでどこの骨なのかわかるそうです。

下から掘り起こされる土砂はいったん、ふるいに乗せられそれを一掴みずつ手にのせてチェックします。見た目では骨か石か色も形も似ている物があります。その場合は近くにある大きな石などに手に持ったままぶつけて音を聞きます。かたく高い音がすればそれは石です。骨は空洞が多いので柔らかい音、または音がしません。私はこの作業に参加し3個くらい小さなご遺骨を拾いました。それと歯を1本発見しました。(写真撮り損ないました〜)虫歯の無いきれいな歯でした。

大きい骨は大腿骨ではなく頸骨(すね)です。

さらに深く、大きな石などもどけて掘り下げています。

頸骨が3本になりました。これで最低でも2柱いることになります。しかしご遺骨はすべて出てくる事はありませんでしたが頭骨の一部、歯、肋骨、椎骨などから1柱あったと考えられるそうです。右下に歯ブラシがあります。なんと名前が掘ってあったようです。身元が判明すれば遺留品はご遺族のところに戻れるのだと思います。私はこれを見て亡くなられた方の声なき叫びというか執念を感じました。やはり助け出してもらいたいんだな、とはっきりと思いました。今回、班長がその声に気付いたのだと思います。

遺留品の十銭硬貨と桜のマークのボタン。このボタンはどんな軍服だったのでしょうか。学徒の碑がすぐ側にありますが学徒とは沖縄戦末期のこの場所ではどんな格好だったのでしょうか。この十銭は? 色々と想像してしまいます。

三角定規。今の定規と違い目盛りがありません。地図などで使うものでしょうか。

「のどぼとけ」は、背骨の上から2つ目の首の骨、解剖学名は第2頚骨、軸椎(じくつい)です。ちなみに、生きているときにのどに見える「のどぼとけ」と、亡くなって焼かれた後の遺骨の「のどぼとけ」とは全く別のものです。

少し離れたところでもご遺骨が見つかりました。こちらはすでに入った遺骨収集の取り残しかもしれないということでした。

最後にご遺骨をこの場から持ち去る前に慰霊が行われました。

各班(全5班)が本部に持ち帰ったご遺骨はお清め班が丁寧に汚れを落とし段ボールに入れられました。今回はやはり細かいご遺骨が多かったようですが我が班が取りあげたご遺骨は1体(1柱)として報告されるようです。午後4時から慰霊祭が執り行われました。このあと金光教那覇教会会長の林さん(写真中央)からお話がありました。「首里(司令部)が陥落したときに戦闘を終結していれば、、」何度も言葉につまる様子は怒りと哀しみに満ちた思いを感じました。摩文仁(まぶに)の語源はマブイ(魂)。その場所をお清めしなければいけない。林さんの言葉は心に響きました。今回、参加させていただき、今はジャングルですが当時の戦火の中を歩き、壕の中に入り、鋭く尖った海岸線を歩いて実感したこと。「過酷、飢え、恐怖、怒り」言葉ではいくらでも並べられますが人間を極限状態までに追い込んだ戦争。想像と実体験とでは天と地の差がありすぎます。住民を巻き込んだ地獄の世界がこの沖縄のまさにこの地にあったのです。そして、そのときに亡くなられた方のご遺骨と会いました。

今の日本の平和はこの国のために犠牲になられた方々の上に立っています。この沖縄戦では戦闘員以上の沖縄の住民が亡くなられています。そして、ご遺骨がいまだにこの土地に眠っています。我々に出来る事は戦争の犠牲となられた方への慰霊や供養しかないと思いました。平和な今だからこそ絶対に忘れてはいけないのです。


2013年2月20日水曜日

摩文仁遺骨収集奉仕 1

平成25年2月16日 17日 (両日)、第40回金光教沖縄遺骨収集活動に一般参加しました。活動内容の趣旨はとして金光教那覇教会は活動の窓口として、沖縄の地にいまだ人知れずねむる沖縄戦戦没者の遺骨収集活動を行い活動の最終日に戦没者の慰霊祭を行います。
午前8時50分に旧慰霊奉賛会事務所前(平和祈念公園内)に集合。受付と同時に傷害保険代300円を支払い、名簿を渡され自分がどの班なのか確認します。名簿を見ると半数以上の方が内地からの方々で、この遺骨収集奉仕のために集まられていると知りました。すぐに各班に分かれて整列したあと主催者からの注意事項と説明がありました。ラジオ体操で体をほぐしてから班ごとに集合してから出発しました。

今回の遺骨捜索地域は南冥の塔周辺です。歩いて健児の塔駐車場に向かいます。南冥の塔は前々回に当ブログでも紹介しました所であります。

我々の班は南冥の塔から下に降りたところのジャングルから入りました。少し進んだ場所で班長から「この辺で始めましょう」という指示があり、各自離れすぎない距離で捜索を始めます。ちなみにこの時期はハブが冬眠しているそうですが注意は必要です。

亜熱帯のジャングルの中はアダンの木などが密集して生えていて道はありません。私は初めての遺骨収集なのでどこを探していいのか分かりませんでした。

最初のうちは人が隠れそうな所を、と言っても当時は艦砲爆撃や火炎放射で隠れる所なんて無かったと思いますので手当たり次第に熊手で土を掘っていきました。見えてくるのは木の根や折れた木の枝ばかりです。

何度も場所を変えて岩場の下あたりを掘っていたら金属片と割れた瓶の口が出てきました。シャフト状の金属はズッシリと重く何のパーツなのか分かりません。とにかく68年前の物であったのには間違えありません。

班長が「そろそろ、お昼にしましょう」戻ってきました。手にはご遺骨のかけらを持っていました。この辺りは何回も何回も捜索している場所なので、今はこのような取り残された小さいご遺骨しかでないそうです。

私は初めて見るご遺骨を触らせていただきました。軽くて冷たかった。この方がどんな最後だったのだろうか思いを巡らしました。なにより出てこられてよかったと思います。ご遺骨は最終日に教会の方が慰霊式をしたあと国立沖縄戦没者墓苑に納められます。

班で一か所に集まり、持参した弁当などを食べて休憩しました。みんな何年もこの摩文仁を中心に毎年遺骨収集奉仕活動をしているそうです。所でこの日は天気がすごく良かったのですがジャングルの中は木々が密集していて光がほとんど入ってこないのですね。このような機会(ベテランと一緒)でなければこのようなジャングルは一人では危険なので絶対入れないと思いました。

午後は少し奥の方まで行ってそこで捜索しましょう、と指示がありました。

木炭のようですが米軍の艦砲弾の一部だそうです。とても重いです。想像してください。こんな物が一日中スコール!のように降り、炸裂していたのです。岩を直撃すれば岩の破片が殺傷兵器と化します。

日本兵の軍靴底。こういった遺留品はそのままにして置かれていました。あらためて、ここが、この場所が沖縄戦の戦場であり最後の地であったと感じました。

班の中のベテランの方から「上の方に壕があったから見てみますか?」と言われ「行きます」と二つ返事で、岩を登り自然が作り出したガマ(壕)に入った。

すでに遺骨収集は入ったようでご遺骨はなく、遺留品はそのまま置かれていた。

野外なら靴底しか残らず土に帰るのだが壕の中では、まだ原型を留めていた。

茶碗類も土には帰らず、ここでの生活感を今も残していた。

壕をあとに、さらに奥へと進んでいく。

軍物の寝袋がある。さすがに68年前当時の物ではないだろう。ではこれは誰が使った物なのか?念のため寝袋をひっくり返して下を確認したが何も無かった。

しかしこの近くに兵隊さんが生息した形跡があった。貝殻や動物の骨もある。あの寝袋はこの辺の壕の穴から出されたのかもしれない。

さらに奥へと進む。

先輩が壕の窪地を発見。草をかき分け登って行く。

信管付きの手榴弾が三つ残されていた。先輩は「これは日本軍の手榴弾、錆びてはいるが中の火薬はまだ生きているので触らないように」妙な緊張感と生々しい空気を感じました。

また、壕の奥は石が積まれていました。ここは昔の風葬の場所かもしれないそうです。

そこから近いところにも手榴弾、艦砲弾、生活用品などが一か所に集められていました。おそらく以前に遺骨収集に入った方々が集められたのだと思います。

さらに進むと波の音が聞えてきました。





海水や風の浸食でしょうか、地面の岩肌は鋭く切り立っていて歩くのは困難だった。転倒すれば怪我は必至だ。

なんとか、200~300mくらい歩いてようやく砂浜にでた。崖の窪みに誰かが建てたのだろうか木の慰霊塔らしきものが見える。

班に戻るために再びジャングルに入る。最初に入ったところから同じ道を歩いていると班のどなたかが収骨した細かいご遺骨が大きい岩の上に。収骨した人はいない。

すぐ近くにもご遺骨と遺留品が。しかし人がいません。

その少し奥に入ったところに班員全員かたまっていて一点を見つめていました。そして現場に到着した私達に気が付くと班員の一人が「出ました、出ました」と。「えっ!」

そこには学徒兵の碑が置かれていました。その奥に大腿骨のような大きい骨と椎骨があらわになっていました。班員の皆さんの推測ですと、この下にそのままの状態で一体あるのではないかということです。このような碑がある所は捜索はすでに済んでいると思われがちですが、班長が何気に(何かを感じたのでしょう)、石をどけたらご遺骨が出てきたようです。本当に出てこられて良かったと思います。この続きは明日、全員で行うということで本日の遺骨収集は解散となりました。

本部に戻り、ヘルメットや熊手を返却して、お疲れさまのお茶とお菓子を頂きました。そして帰る前に班の人の所に行きご挨拶と「明日が楽しみです」と正直な気持ちを伝えました。最近では二日間やって何も出ない時もあるそうで(出ないに越した事はないのですが、まだ数千余と言われるまだこの地に眠るご遺骨がある以上)収骨できる喜びを隠しきれない様子でした。