2013年2月22日金曜日

摩文仁遺骨収集奉仕 2

摩文仁の遺骨収集二日目。この日も8時50分に旧慰霊奉賛会事務所前(平和祈念公園内)集合です。気温も高く天候にも恵まれました。

皆さん、本日も宜しくお願いいたします。

早速、昨日のご遺骨発見現場に入りました。まずは露出しているご遺骨を拾っています。

集めたご遺骨がどの部位なのか骨の名称の解説書を見ながら並べていきます。ベテランの方は見ただけでどこの骨なのかわかるそうです。

下から掘り起こされる土砂はいったん、ふるいに乗せられそれを一掴みずつ手にのせてチェックします。見た目では骨か石か色も形も似ている物があります。その場合は近くにある大きな石などに手に持ったままぶつけて音を聞きます。かたく高い音がすればそれは石です。骨は空洞が多いので柔らかい音、または音がしません。私はこの作業に参加し3個くらい小さなご遺骨を拾いました。それと歯を1本発見しました。(写真撮り損ないました〜)虫歯の無いきれいな歯でした。

大きい骨は大腿骨ではなく頸骨(すね)です。

さらに深く、大きな石などもどけて掘り下げています。

頸骨が3本になりました。これで最低でも2柱いることになります。しかしご遺骨はすべて出てくる事はありませんでしたが頭骨の一部、歯、肋骨、椎骨などから1柱あったと考えられるそうです。右下に歯ブラシがあります。なんと名前が掘ってあったようです。身元が判明すれば遺留品はご遺族のところに戻れるのだと思います。私はこれを見て亡くなられた方の声なき叫びというか執念を感じました。やはり助け出してもらいたいんだな、とはっきりと思いました。今回、班長がその声に気付いたのだと思います。

遺留品の十銭硬貨と桜のマークのボタン。このボタンはどんな軍服だったのでしょうか。学徒の碑がすぐ側にありますが学徒とは沖縄戦末期のこの場所ではどんな格好だったのでしょうか。この十銭は? 色々と想像してしまいます。

三角定規。今の定規と違い目盛りがありません。地図などで使うものでしょうか。

「のどぼとけ」は、背骨の上から2つ目の首の骨、解剖学名は第2頚骨、軸椎(じくつい)です。ちなみに、生きているときにのどに見える「のどぼとけ」と、亡くなって焼かれた後の遺骨の「のどぼとけ」とは全く別のものです。

少し離れたところでもご遺骨が見つかりました。こちらはすでに入った遺骨収集の取り残しかもしれないということでした。

最後にご遺骨をこの場から持ち去る前に慰霊が行われました。

各班(全5班)が本部に持ち帰ったご遺骨はお清め班が丁寧に汚れを落とし段ボールに入れられました。今回はやはり細かいご遺骨が多かったようですが我が班が取りあげたご遺骨は1体(1柱)として報告されるようです。午後4時から慰霊祭が執り行われました。このあと金光教那覇教会会長の林さん(写真中央)からお話がありました。「首里(司令部)が陥落したときに戦闘を終結していれば、、」何度も言葉につまる様子は怒りと哀しみに満ちた思いを感じました。摩文仁(まぶに)の語源はマブイ(魂)。その場所をお清めしなければいけない。林さんの言葉は心に響きました。今回、参加させていただき、今はジャングルですが当時の戦火の中を歩き、壕の中に入り、鋭く尖った海岸線を歩いて実感したこと。「過酷、飢え、恐怖、怒り」言葉ではいくらでも並べられますが人間を極限状態までに追い込んだ戦争。想像と実体験とでは天と地の差がありすぎます。住民を巻き込んだ地獄の世界がこの沖縄のまさにこの地にあったのです。そして、そのときに亡くなられた方のご遺骨と会いました。

今の日本の平和はこの国のために犠牲になられた方々の上に立っています。この沖縄戦では戦闘員以上の沖縄の住民が亡くなられています。そして、ご遺骨がいまだにこの土地に眠っています。我々に出来る事は戦争の犠牲となられた方への慰霊や供養しかないと思いました。平和な今だからこそ絶対に忘れてはいけないのです。