ひめゆり部隊は、昭和20年3月、軍の要請によって師範学校女子部、第一高女生徒320名で結成され、南風原陸軍病院に特志看護婦として配属された。彼女らは常に地下水のしみる狭い壕内で看護活動を続け、食事の世話から遺体の埋葬まで17~8才の乙女には痛ましいほど働き続けたという。
資料館中庭。米軍の激しい艦砲射撃と火炎放射器による焼き払いでこの辺一帯も焼け野原で草木一本も生えていなかったのでしょう。戦後植えられたとされるガジュマル。
桜も植えられたんですね。
ひめゆりの塔とならんで建てられているのが沖縄戦殉職医療人之碑である。沖縄戦で軍に協力し、住民の衛生、保健、治療に活動し、各地で戦死した医師、歯科医師、薬剤師、看護婦等、約50余名を合祀している。 戦時体制となった時、住民の生命を預かる医師の大半は日本本土へ疎開したが、自分たちの郷土は自分たちの手で守り抜こう、と覚悟を決めた医師達は、郷土に踏み止まって住民の治療、衛生に努力したが、戦局は不利となり、日を追って増加する傷病者の治療、看護に疲れて倒れる者、さらに、敵陣に斬り込み、自決する者等、実に仁術を天命として尽くし、最後まで闘って戦没した。
ひめゆりの塔は、沖縄戦末期の激しい戦闘でほぼ全滅した南風原陸軍病院第三外科壕の跡に立つ慰霊碑。1946年4月7日除幕。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、県立第一女子高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた造語である。
陸軍病院第三外科職員之碑
沖縄陸軍病院第三外科壕跡
学徒隊のなかで最も被害を受けたのがこの第三外科壕である。第三外科壕は、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した
ひめゆり平和祈念資料館
このH.Pでも勉強することができます。
おとめの像
梯梧の塔 ひめゆりの塔周辺の喧噪からすこしはなれて、駐車場の裏手にでいごの塔が建っている。 学徒として動員され 死亡した私立昭和高等女学校の生徒をまつっている。ひめゆり学徒以外にも5校の女子学徒隊が 戦地へ動員された。
資料館のまわりにはいくつもお土産店がありますがなにか違和感を感じます。
大きな地図で見る
第一外科壕(アブチラ壕)
せっかく、ひめゆりの塔まで来たのなら道路を挟んで歩いても来れるここまで(第一外科壕)にきてお参りしたいですね。
ひめゆり関連では最後に「ひめゆり学徒隊散華の跡」にお参りしたいと思います。
「ひめゆり学徒隊散華の跡」は荒崎海岸にあります。糸満市字上里にある糸豊環境美化センター正門の脇の農道を「荒崎海岸」の案内板に従い海に向かいますとこのポイントにつきあたります。このブロックが目印です。ここに車を停めてブロックの脇道を歩いて進んでください。
海岸までの道。
海に出たら左手をよく見ると
階段があります。
階段を登った先には慰霊碑が見えます。
ひめゆり部隊の12名と引率教員は、解散命令が出た後、ここまで逃げてきますが、ここで米兵の急襲に出会い、引率教員の持っていた手榴弾で自決を計り、内8名が死亡、また、米兵の銃の乱射により3名が死亡、3名が重傷を負った所です。
ここまで逃げてきて、最後にここで自決。
戦争が無ければ、普通に暮らしていた沖縄の人達。子供達。
「戦争で勝った方も負けた方もいい事はなにひとつ無い」元ひめゆり隊の言葉
荒崎海岸