2013年3月9日土曜日

忠霊之塔

忠霊之塔(南城市冨祖崎原)

建立、昭和32年(建立者、 屋比孟三郎)合祀柱数(総計42、内沖縄戦戦没者33)
場所は南城市冨祖崎公園近く



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佐敷の慰霊塔

佐敷の慰霊塔(南城市佐敷)

 建立、昭和28年(建立者、仲里清徳)合祀柱数(総計68、内沖縄戦戦没65) 場所は沖縄の聖地を巡る「東御廻り」の佐敷上グスクの霊域内にある。



2013年3月6日水曜日

二本松の壕

二本松の壕(詳細不明)

どこの壕にもある徹底した米軍の火炎放射攻撃の跡。

逃げ場の無い洞窟。敵兵がこの光に影となって見えたときはどんな気持ちだったのだろうか。

どうか、安らかに。


2013年3月5日火曜日

糸洲の壕(ウッカーガマ)

鎮魂之碑

「この洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川県出身の将兵、現地召集兵並びに従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である」

鎮魂之碑の横に「糸洲の壕」の入り口の細い階段がある。そこには綺麗な花が咲いていた。

その花の階段を降りていくと黒く焼けた岩肌のガマの入り口が大きく口を広げている。

「糸洲の壕」には二つの入り口がある。こちら側は「ウッカーガマ」

ガマの中は水はけのない泥土でした。ここで線香と水を供えて慰霊をさせていただきました。

1945年5月27日、戦況の悪化に伴い、豊見城城址にあった第24師団第二野戦病院(山3487部隊小池隊)は糸洲壕に移動してきます。この第二野戦病院には私立積徳高等女学校の女生徒25名が学徒動員されていました。移動にあたっては、歩ける者は部隊に帰し、重傷患者は「処置する」よう命令されました。
 しかし軍医は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れたということです。
 この長野県出身の軍医・小池勇助隊長は戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人であり、最期まで学徒隊を守り犠牲を最小限に抑えた人物でした。第二野戦病院小池隊は糸洲壕に避難したものの艦砲射撃が激しくなり、衛生兵や学徒隊・傷病兵は壕の奥へと移動していくことになります。壕の中は広いのですが、中には水量豊富な川が流れており洞窟内は濡れた状態で、学徒隊の足袋は乾くことが無く足がふやけてしまい歩くのも困難になったということです。
6月17日に壕の周囲は米軍が取り囲み、壕は馬乗り攻撃を受けます。壕の上からボーリングし穴を開けガソリンを流し込んで火をつけたり、ガス弾を打ち込んだりする攻撃です。
衛生兵たちは切り込み隊に任命され、夜になると闇夜に紛れて米軍へ奇襲を行いました。
衛生兵が少なくなるにつれ、学徒隊の仕事はますます多くなっていきました。
こうした中、小池隊長の元に野戦病院の解散命令が届きます。この解散命令とは実際には「玉砕せよ」という命令です。しかし今解散したら学徒隊を戦場に放り出すことになる。小池隊長は学徒隊の命と軍命の狭間で悩みましたが、こんな状況の元で少女たちを放り出すことは出来ない、と解散命令を握りつぶし壕の中で解散の時期を探ることにしたのです。 6月26日になって、沖縄守備隊第三十二軍牛島中将・長参謀自決の報を受け、小池隊長は日本軍の敗北を知ります。そこで小池隊長は危険が少なくなったと判断し積徳学徒隊に解散命令を出します。
 解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、次のような話をしたということです。
「日本は戦争に負けました。長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。負ける戦だと分かっていれば、君たちを預からなかった。親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない」と謝罪し、頭を下げました。
米軍に捕らえられるくらいなら自決を選ぶと言う少女たちに対しては、
「捕虜になることは恥ではない、本当の恥は死ぬことだ。決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示し、一人一人握手をし、学徒隊を送り出しました。
 解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったために、学徒隊25名のうち、戦争の犠牲となったのは3名で、22名が生還しました。
 解散の翌日、恐怖のため糸洲壕から遠く離れることができなかった学徒隊の一人の少女が壕に戻り、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見します。

てぃんがーら様のブログより引用させていただきました。

ただただ、安らかに。




2013年3月3日日曜日

糸満の壕で大量未使用弾

琉球新報 2013年2月25日

糸数アブチラガマ

糸数アブチラガマ

糸数アブチラガマへの入壕は南城市の南部観光総合案内センター(098-852-6608)で予約が必要となります。入壕料(大人250円、子供100円)を支払い、ヘルメット(無料)を借りてから今回私はガイドさんと一緒に入壕しました。(ガイド料1,000円)入り口はかなり狭く、体を斜めにしながら降りていきます。中に入ると想像をはるかに超える広さに驚きました。そして完全に真っ暗な世界で空気はひんやりしています。ヘッドライトと懐中電灯、そしてガイドさんを頼りに歩いていきます。洞窟の中は270m。説明を受けながら約1時間かけて地上に戻りました。その現場でのガイドさんによる説明にはとてもリアリティがありました。写真と共にこのブログでお伝えしたいのですが、この壕は写真撮影禁止となっていますので内部の写真は一枚もありません。以下は南部観光総合案内センターで頂いた糸数アブチラガマのパンフレットです。まずは、こちらをご覧下さい。







ガマから地上に出たところに慰霊碑が立っています。戦後、ご遺骨が集められた場所です。慰霊碑の横にある千羽鶴がとても美しいです。日本各地の学校の生徒さん達が作られたのでしょう。ガイドさんは脱帽して「ここでお祈りしましょう」と言われました。



2013年3月2日土曜日

轟の壕

轟の壕は伊敷集落の南西約500mに位置する自然洞穴である。直径約30cmの円筒形の窪地(ドリーネ)があり、その地下に全長約100mの自然洞穴が東西に延びている。

洞穴内で起こった悲惨な状況について体験者の証言が記録されていることや地理的条件がよいことなどから平和学習で一般、修学旅行などに利用されている。

民間の平和ガイドさんと一緒に入れば説明を受けられますし危険な場所も回避できると思います。個人でも見学できますが足下が悪いので十分に注意してください。

階段を一段下に降りると自然ガマの窪地と慰霊碑があります。壁は黒く焦げています。この場所がどのような所は分かりませんが、いくつも拝所があるので多くの方が犠牲になったのだと思います。

なにか、圧力というか重い空気を感じます。ここで線香とお水を少し供え最初の慰霊をしました。「どうか、安らかに。」

階段をさらに降りると、行き止まり。人がひとり通れるくらいの小さな穴が空いているだけでした。中は真っ暗でなにも見えません。この穴は凄く恐く感じました。

階段を少し上に戻りますと別の広場に行く道がありました。

ここにも、いくつもの窪地があり圧力を感じます。


地面にも黒い跡が残っています。。

見上げれば、木々の隙間から空が見えます。

その奥は行き止まり。今回(2013年2月7日)はこれで轟壕の慰霊を終了しました。

しかし、最初のあの穴が心残りでしたので帰ってからホームセンターで300ルーメンのヘッドランプと懐中電灯を購入しました。

2013年2月28日、再度、轟の壕に入りました。そしてあの穴から入ります。

ダブルのライトで洞穴の中がよく見えます。中から水の音が聞えます。入り口の穴は狭く、垂直に降りるような感じです。

頭上の鍾乳石から雫が落ちてきます。

階段を降りると地下水が流れていました。空気孔は無いのかもしれません、何かムッとしたような空気と匂いがします。中は真っ暗闇でしたがライトとカメラのフラッシュで写真を撮ることができました。


県関係者や日本軍がいた所に慰霊所がありましたので線香を立てて、膝をつき手を合わせました。どうか、安らかに。

地上に上がると明るくて、目が眩みました。そして新鮮な空気がおいしいかったです。

沖縄県平和祈念資料館編「戦争遺跡」から写真を引用させていただきました。

沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」から写真を引用させていただきました。