この日は沖縄の1月、しかも平日の午前中なので人はかなり少ないです。ゆっくりお参りできそうです。
この日はどこも静かでした。
糸満市摩文仁の平和祈念公園に平和の丘彫像が、このほど完成した。23日に沖縄全戦没者追悼式が開かれる式典広場の正面に位置。厳粛な式典を見守る新たなシンボルは、静かに「慰霊の日」を待っている。安定感のあるフォルムは「揺るぎない誓いの精神」を表現したという。黒御影石製のアーチは平和のくさび"で、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を沖縄に見立てて配置した。下層部はガマ(自然壕(ごう))をイメージ。奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっている。デザインは藤波耕司さん(福岡県)の案が採用された。
「琉球新報」より抜粋
メイン園路は、その中心線が6月23日の「慰霊の日」における日の出の方位に合わせて設定されています。
「平和の礎」には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれております。毎年、新たに分かった戦没者のお名前が刻まれ続けています。
「平和の礎」でお参りする場所はここです。線香を焚いてはいけません。目の前に居る御霊に感謝と哀悼の誠をささげましょう。
ガイドさんが「平和の火」の説明をされています。私もお客さんに混じり説明を聞きました。「平和の礎」内にある広場の中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものです。
平和学習のため観光ツアーや修学旅行では必須コースになっています。
さきほどのガイドさんの説明ではこの台座の中心が沖縄で、その沖縄から平和を発信して、その波は円形の台座を溢れて外に広がっている。
平和の礎が扇形なのはそうゆう意味だったのだ。鉄の暴風の波が平和の波になって、わだつみに折り返し行くコンセプト。
沖縄県平和祈念資料館正面
沖縄県平和祈念資料館ホームページより
1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。
韓国人慰霊塔
慰霊塔は平和祈念堂の下に位置する。沖縄戦で戦没した韓国人を祀る。碑文(英文、和文、ハングル文字)には次のようにある。「1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年たちは日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された一万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰りざるこれらの寃魂は波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くであろう。この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。願わくば安らかに眠れよ」なお碑文の後方の石塚は故国の墓を模したもの。
沖縄工業健児の塔
慰霊塔は平和祈念資料館の海側に隣接。太平洋戦争中、沖縄その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員。生徒167名を祀る。同校は沖縄戦では、生徒97名が動員された。生徒達は鉄血勤皇隊、通信隊を組織して輜重兵第二十四連隊、第五砲兵司令部に配属され戦闘に参加。88名が犠牲となった。塔は工業健児ら(七本の柱)がスクラムを組み(横を貫く一本の大貫)平和(碑身)を守る形となっている。
平和の鐘
大きな地図で見る